過去から学ぶ危険性評価試験の必要性
1921年 オッパウ(ドイツ)
9月21日の朝7時29分と31分の2回にわたり、ドイツのオッパウにあるBASFの工場で大爆発が起こった。死者509名、行方不明者160名、負傷者1,952名という大惨事となった。
この爆発で工場と近くの1,000戸の家屋のうち約70%が破壊された。オッパウから約22km離れたハイデルベルヒでは最初2度の爆発による地震が感じられ、次いで82秒たって爆風が吹きつけて窓や戸をこわし、ガスタンク、石油タンクや川に浮かぶはしけに被害を与え、爆音と地震動は230km離れたバイロイトにも達したといわれる。
原因は、固化した約4,500トンの硫硝安混成肥料(硫酸アンモニウムと硝酸アンモニウムの1:2(モル比)複塩)をダイナマイトで爆破してこわす作業をしたためである。この爆破作業は以前から監視下で行われており、爆発災害が起こるまでに約3万回の爆発作業が事故なく行われてきた。
その後の実験でも、この複塩を爆発させることは非常に困難なことが示された。この例は、普通の爆発の試験法では爆発しないと判断される物質が非常に大量の場合には大規模起爆によって爆発することもあることを示した例で、危険物の評価に関して考えさせられる例である。
出典:化学薬品の安全-反応性化学薬品の火災・爆発危険性の評価と対策- 前東京大学教授吉田著 大成出版社(1982)
1976年 ノーフォーク(イギリス)
6月27日(月)17時10分にダウ・ケミカル社キングス・リン工場で乾燥器中のZoalene(3,5-ジニトロオルソトルアミド)が爆発し、1名が死亡し工場や建物に被害を与えた。この原因は乾燥器中で120~130℃に熱せられたZoaleneが自己加速分解を起こし、爆轟を起こすに至ったものとされた。
ダウ・ケミカル社が以前に行った示差熱分析(DTA)では、この化合物は274~284℃で発熱ピークを持つことがわかっており、比較的熱安定性は良いものと考えられていた。イギリスの王立兵器研究開発研究所(RARDE)での試験では140℃、28hr及び150℃、26hrの加熱試験では色が黒くなるだけで特に不安定な徴候は見られなかった。
しかし、事故後に行われた加速速度熱量計(ARC)による試験結果では、この化合物を断熱状態においた場合は120~125℃で自己加速発熱分解することが示された。また、この物質は機械的な打撃や摩擦には鈍感であるが、爆薬を用いて起爆するとピクリン酸の60%のエネルギーを放出して爆轟することが示された。
この事例は現在用いられている標準的な試験法を用いれば爆発性を予見できるが、不十分な方法では爆発性は予見できなかった例といえよう。
出典:化学薬品の安全-反応性化学薬品の火災・爆発危険性の評価と対策- 前東京大学教授吉田著 大成出版社(1982)
1976年 セペソ(イタリア)
7月10日(土)12時37分頃、2,3,7,8-テトラクロロジベンゾ パラ ディオキシン(TCDD,通称ダイオキシン)を含む、2,3,5-トリクロロフェノールの蒸気が放出され、広範囲な地域がこれらによって汚染された。直接の死亡者こそ出なかったが、家畜2,178頭が死亡、8万頭余りが屠殺された。汚染地域に住んでいた住民は強制的に退去させられた。推定22万の人々が症状を訴え、大きな後遺症を残した。
事故は、反応容器の安全破壊板が破裂し、激しい音とともに、内容物が上空30~50mの高さに吹き上げられ、キノコ状の雲になり、その後、冷却されて地上に降り、白い粉末結晶を住宅地や畑に降らせながら、北風によって南方へ拡散した。高汚染地域では、TCDDの濃度が240µg/m2に及んだ。当局の推定によると5µg/m2以上の濃度で汚染された地域の表土を10cmだけ削るとしても、容積17万m3、重量23万tにも達するという。
1976年7月9日、通常通り、エチレングリコール3,235kg、TCB2,000kg、キシレン609kg、苛性ソーダ1,000kgを反応器に仕込んだ。所要時間は1時間であった。このあと、反応に6~8時間、溶媒の蒸留に3~4時間、水の注入に15分かかり、全工程の所要時間は11~14時間の予定であった。反応は同日16時に開始された。翌10日土曜日の6時まで14時間あったので、反応は終了するはずであった。この会社は週末は操業しないことになっていた。
会社側の説明によると、プロセスは余裕をもって終了し、シフト勤務の終了直前にエチレングリコールの約50%が回収可能であり、また、3,000リットルの水の注入によって、反応混合物の温度は50~60℃になるはずであった。実際の反応は136℃で行われ、水とキシレンの蒸留を並行して行った。反応終了後、キシレンを158℃で除去し、エチレングリコールは普段よりも多く残っていた。
7月10日、4時45分に加熱を停止し、5時には攪拌機も停止し、反応器を常圧に戻した。このときの温度は158℃で、危険温度の230℃よりはずっと低かった。しかしながら、水の注入は行わなかった。そして、温度記録計の電源も切って、この作業員は職場を離れたので、反応終了後6.5時間が無監視の状態にあった。
7月10日、12時37分、約4torrに設定されていた反応器の破裂板が破壊し、内容物が霧状の雲となって飛散し、風下方向に拡散した。この拡散は反応器を冷却することですぐに停止し、内容物の温度も数時間後には正常に戻った。ちなみに、放出後に内容物の温度を測定したところ、測定限界である200℃を超えていた。この事故には2つの規則違反、すなわち、
(1)反応後、水を入れなかった。
(2)攪拌及び冷却なしに反応器を放置した。
があったわけだが、たとえこのようなミスがあったとしても、エチレングリコールが大量に残り、温度も危険限界とされる230℃よりもずっと低い158℃であったにも関わらず、なぜ8時間後に反応器内容物が、320℃以上になったかが、疑問として残る。 事故原因を解明するため、イタリアのCardilloとGilleriは事故時となるべく同じ反応条件で調整した試料についてARC(Accelerating Rate Calorimetry)を用いて解析を行った。その結果、230℃以前の170℃及び190℃で、それぞれ発熱が見られることがわかった。したがって、これまでの経験による危険限界温度が230℃であるというのは、必ずしも正しくないことになる。誤った情報でプロセスをコントロールしていたことになる。もとより、この研究のみですべての原因が解明されたとはいえないかもしれないが、少なくともこのような結果が得られ、高温での放置の危険性が指摘されたことに注目するべきで、最新の機器による測定の威力をまざまざと見せつけた例である。
出典:防火・防爆対策技術ハンドブック 上原陽一・小川輝繁 監修 株式会社 テクノシステム(1994)
1980年 浦和(日本)
5月14日午後6時5分頃、浦和市にある薬品製造工場で爆発事故が起き、2名の死者と13名の負傷者を出した。そして、隣接の工場、民家など390棟が破損したと報じられている。原因は医薬品中間体5-CT(5-クロロ-1,2,3-チアジアゾール)数100kgが何らかの理由によって爆発したためと考えられている。また、西ドイツの化学工場でも1978年1月に同じ物質による爆発事故が起こっており、3名の死者と4名の負傷者を出している。
医薬品のような化学薬品は一般には特殊な場合を除いて、爆発性とは無縁なものと考えられている。したがってこの物質も恐らくは爆発性物質とは考えられておらず、爆発性物質に対する配慮なしに取り扱われていたものと思われる。
しかし、事故後の検討ではこの物質がかなり危険な爆発性を持つことが分かった。そのような理由でこの事故は我が国の化学工業界に衝撃を与え、このような不安定物質のエネルギー危険評価に関心を持たせる契機となった。
出典:化学薬品の安全-反応性化学薬品の火災・爆発危険性の評価と対策- 前東京大学教授吉田著 大成出版社(1982)